流浪のストイック・クイーン〜皇妃エリザベート〜
王妃、プリンセスの中でも飛び抜けた美貌を誇るエリザベート(1837年12月24日 – 1898年9月10日)。
ヨーロッパ一の美女としても知られています。
エリザベートの正式名はエリーザベト・フォン・エスターライヒといい、
オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。
出生名のエリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ、ヘルツォーギン・イン・バイエルンという名からもわかるように、バイエルン公国のヴィッテルスバッハ家のプリンセスでした。
愛称は、「シシィ」。
輝くばかりの美しさとは裏腹に、内面は苦渋に満ち、
生涯孤独な放浪の旅に明け暮れ「暗殺」という悲劇的な最期を遂げた皇后となりました。
名家、バイエルン公爵マクシミリアンと公爵夫人との第3子として、エリザベートは誕生しました。
幼少時代は、芸術が好きで、何よりも自由を愛し、
感性豊かな父の教育により、明るくのびのびとした幼少時代を過ごします。
貴族の子女に必要不可欠とされる、
音楽や一般教養、礼儀作法は苦手。
木登り、乗馬、水泳、魚釣りが得意という活動的な少女でした。
また、好きなことは詩を作ること。
次に作文、外国語、絵画。
シシィは母から、貧しい人、病人、不幸な人に親切にするよう教えられ、
父からは、形式にこだわらず深く思索し、物事の本質を見極める大切さを教えられました。
シシィは父母の薫陶を生涯持ち続けます。
そんなシシィでしたが、
なんとオーストリア皇帝となるフランツ・ヨーゼフの一目惚れにより、16歳で結婚。
イヤとは言えなかったようです。
しかし、その結婚生活は自由に育てられたシシィにとって牢獄でした。
当時のハプスブルク家は、衰退の一途を辿っている途中でした。
それをなんとか再興させようとしていたところに嫁いだからなおさら。
姑ゾフィーは、実の叔母であったのにも関わらず、
性格の違いからか一生通じ合うことはなかったようです。
子供を姑に取り上げられたことは一番堪えたようです。
会うことさえ自由にできなかったのですから。。
次第に精神を病んでいきます。
医師から勧められた転地療法のため、
旅をするようになったシシィは、だんだんと自分を取り戻していきます。
そして、旅で癒され異文化に触れるうちに、
成熟した聡明な女性として生まれ変ります。
自分の美しさを利用する術も身につけました。
35歳を過ぎてからは自らカメラの前には立たず、
シシィは永遠の“美の神話”のヒロインであり続けたのです。
「若く美しい皇妃の姿のみが、人々の脳裏に焼きついていなければならない」
1872年ゾフィーが亡くなり、嫁と姑の争いは幕を閉じました。
晴れてウィーン宮廷の女主人となったシシィですが、放浪癖はおさまりませんでした。
ハンガリーやバイエルン、ヨーロッパ各地へさすらいの旅に出ました。
すでに夫への恋愛愛情はなく、あったのは情だけ。
自ら愛人を紹介し、その女性をフランツ・ヨーゼフは生涯大切にしたようです。
1889年、息子ルドルフの自殺により、自責と後悔の念にかられ、
死ぬまで喪服を脱ぐ事はありませんでした。
ルドルフの死後は抜け殻のようになり、
とにかくじっとしている事ができずさすらいを続けました。
スイスに滞在していたエリザベートは、
イタリア人の無政府主義者のルイジ・ルキーニに心臓を刺され、
この世に別れを告げました。
この地上に安住の地を見つけることのできなかったエリザベートは、
ようやく安らかな永遠の眠りにつくことができたのです。
「結婚は愚かな制度です。
まだ15歳やそこらで他人の手に引き渡され、
意味も分からないままに誓約して自分を縛り、
その後30年以上も、その誓約を解消する事ができずに後悔し続けることになるのです。」
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こんにちは。
読ませていただきました。
美しい文章に香りのミドルノートに孤独を感じました。
大変な人生だったのですね。
今宵の月にエリザベートさんの幸せを願いました。
山田雅子様
美しいコメントありがとうございます!
代表の青木です。
オーストリア=ハプスブルク帝国の終演を迎えていた時代、
夫のフランツ・ヨーゼフが帝国主義、エリザベートは自由主義。
考え方の違いも孤独を助長したかもしれません。
香水教室をされているのですね。
ともに香水文化を広めてまいりたいですね♡