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日本アロマ香水マイスター協会

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日本アロマ香水マイスター協会

香りは大脳辺縁系といわれる感情脳にダイレクトに届きます。いい香りなら、感情脳を喜びの気持ちで満たし、「なりたい自分」になれるのです。
技術を身に付ければ何千種類もの香りができるのです。

また、現代は目まぐるしく情報が流れ、あちらこちらで戦争もあり油断すると気持ちが落ち込むことも多々。
そんなときに、メンタルもサポートする香りは強力な味方となってくれるでしょう。

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12月2日
20世紀最高といわれたソプラノ歌手、マリア・カラス が生まれた日。

多くの聴衆を魅了し、後のオペラ界に強い影響を及ぼした。

(1923年12月2日-1977年9月16日)

ニューヨーク出身。
父ゲオルグ・カロゲロープロスは、ギリシャ人で元々農家だった一族に生まれた陸軍将校だった。ゲオルグはアテネ大学で薬学を学んだにも関わらず、気が弱かったせいか勧められるまま軍人になってしまう。

彼はハンサムだったので、言い寄る女性は絶えなかったそう。気が弱いからか、普段からどこかで助けられてしまうためか、よく考えず、行動も決断もできない男性だった。つまり、自立心の低い人間だった。

そんな彼にとって目をつけたのは、16歳のエヴァンゲリア・ディミトリアス。国王の主治医だったという名門一家に生まれ、プライドと上昇志向は高かった。

が、当時女性に教育は必要ないという環境で育ったため、良き夫を得、裕福な暮らしをすることくらいしか考えていなかった。11歳年上のゲオルグを見込んで、まずは母を説得し、そして父も説得。そして結婚する。

ゲオルグは、妻に対する愛情表現のできない男だった。結婚後、故郷のペロポネソスに戻り一軒しかない薬局を開業。経済的には安定し、長女イアキンシー(ジャッキー)も誕生する。そしてゲオルグの女遊びが始まった。

結婚3年目にして待望の跡継ぎが生まれたものの、その男の子は3歳で亡くなった。

これにより、「薬を売っているくせに自分の息子さえ救えなかった無能な夫」「農家出身のくせに立派な男のふりをして私をだました夫」と。エヴァンゲリアは失望し、怒りに震えた。

そこでこの状況を打破しようと、ゲオルグは思いつく。

「アメリカへ行こう」と。

当時NYには多くのギリシャ人が移住していた。そこの知り合いの伝手で薬局を開業すればきっとうまくいくと考えたのだ。娘を連れ太陽が降り注ぎ始める春のペロポネソスを離れ、夫婦は薄暗いNYに旅立った。名をゲオルグからジョージに変え、発音しにくい姓はカラスとなった。

が、薬局の許可証を得るのに5年もかかり、結局その間、昼はしがない薬局で雇われ仕事、夜はギリシャ語教師として働くことに。すぐに貯金も底をついた。

エヴァンゲリアは3人目の子どもを妊娠、亡くした男の子の生まれ変わりと信じ、出産した。が、その子は女の子だった。

エヴァンゲリアは、絶望。

マリアと名付けられ、育っていく。太っていてニキビだらけの女の子。エヴァンゲリアは、姉のジャッキーばかりを可愛がった。

ところがマリアは天才だった。何事も習得が早く、やっている姿を見るだけで覚えてしまうため、姉が課題を引き終えたピアノに近づいて教えてもいないのに姉より上手に弾いてしまうこともあった。難解な曲も極度の近眼だった彼女は読まずにレコードで聴いてすぐ覚えた。

こうしたマリアの才能に目をつけたエヴァンゲリアは、ギリシャに戻り、教育を受けさせ、一流のオペラ歌手にするべく、尽力していく。一生、マリアを金のなる木にし、裕福に暮らすために。

マリアは自分の社会的価値と引き換えに愛情を得、そこに喜びを感じ、精進し、世界でも類を見ない超一流の歌姫になっていく。

特に傑出した点は、そのテクニックに裏打ちされた歌唱と心理描写と演技によって、通俗的な存在だったオペラの登場人物に血肉を与えた事といわれている。

1977年、パリ16区の自宅にて53歳で死去。生前の希望により1979年に出身地のギリシャ沖のエーゲ海に散骨された。

生まれて以来、母、姉から無償の愛を与えられず、散々無心されてきたにも関わらず、死後見つかった彼女の遺書。

そこには、母、姉に経済支援を続けること、使用人にも十分な金額を与えること、音楽家の卵たちのため「カラス奨学金」など支援基金を立ち上げること、ミラノの国立がん研究センターへ寄付することなどが書かれていた。

#マリアカラス
#オペラ歌手
#ソプラノ歌手
#今日は何の日
#サロンドフルールイコア
#ウーマンズストーリー
#12月2日生まれ
#生誕100年
美貌のイギリス王妃は夫の浮気で悩まされる

12月1日
イギリス国王エドワード7世の妃、アレクサンドラ・オブ・デンマークが生まれた日。王太子妃時代には、戦争で亡くなった遺族の経済援助のためイギリス陸海空軍人家族協会を設立し、王妃時代になるとイギリス陸軍看護施設を設立したりと功績を残した。エリザベス2世の曽祖母にあたる。

(1844年12月1日 - 1925年11月20日)

デンマーク・コペンハーゲン出身。デンマーク国王クリスチャン9世の長女。

アレクサンドラは家族からは「アリックス」という愛称で呼ばれ、妹のダウマー(後のロシア皇后マリア・フョードロヴナ)とは歳も近く、同じ部屋で育ったということもあり、大の仲良しだった。

ダウマーとともに美貌の王女姉妹と呼ばれ、2人が結婚年齢に達するとそれぞれヨーロッパの諸王室から縁談が舞い込んだ。

中でも、父王が喜んだお相手はイギリス王太子アルバート・エドワードだった。

イギリス ヴィクトリア女王は、当時イギリスが懇意にしていたプロシア(ドイツ)の敵国であったため、一旦は躊躇したようだが、アリックスの美貌で素行の悪いアルバート・エドワードを改心させようと結婚させた。

1863年王太子アルバート・エドワードと結婚。プリンセス・オブ・ウェールズとなる。2人の間には3男3女が生まれるも、王太子の奔放な女性遍歴は絶えることはなかった。

腹いせに、息子たちには、「お父さまの様に愚かな人間になってはなりませんよ」と言い聞かせていた。  

アリックスは、夫の愛人と言われた女性には蔑称をつけて呼び、また、夫と愛人が歩いているのを見かけると、彼らを「豚」と呼んでいた。

未来の国王として育ててきた長男アルバート・ヴィクター28歳の死は、さらにアリックスに追い打ちをかけた。

次男ジョージ・フレデリック(後のジョージ5世)は一度癇癪を起こすと暴れ出すという気性の激しさでアリックスの手を焼かせた。

その際立った美貌のために、アリックスは《イングランドのエリーザベト》とも呼ばれた。オーストリア皇后エリーザベト本人もアリックスの美貌と自身の美貌のどちらが優れているか気にしており、ヴィクトリア女王の晩餐会に出席した際には、いち早く声をかけたそう。

1901年、ヴィクトリア女王の崩御により、アルバート・エドワードがエドワード7世として即位し、アリックスはイギリス王妃となった。既に50歳を超えていたが、30代に見えたというほどの美貌を誇った。

エドワード7世の女遍歴はその後も絶えず、生涯愛人が切れ目なくそばにいた。1910年、王が危篤に陥ったとき、王妃はできる限りの連絡をとって王の友人を招き、最後の別れをさせた。

しかしアリックスは夫の最愛の愛人だったアリス・ケッペルだけは、夫が危篤になるや国王の寝室から追い出した。エドワード7世の王太子時代からの愛人であったアリスは、時には皇后アリックス以上の扱いを受け、アリックスを悩ませた。その後もアリスには気を許さず、一生彼女を憎悪してやまなかった。

そのアリスは、現国王 チャールズ3世の妃、カミラ夫人の直系の曽祖母にあたる。

1925年ノーフォーク、サンドリンガム・ハウスにて死去。享年80歳。

#アリックス
#アレクサンドラオブデンマーク
#エドワード7世妃
#今日は何の日
#サロンドフルールイコア
#12月1日生まれ
#ウーマンズストーリー
#プリンセスストーリー
11月30日
江戸風俗研究家、杉浦 日向子が生まれた日。
漫画家、エッセイストでもあった。時代考証が確かで、江戸や明治の生活風俗を生き生きと描いた作品を残した。

(本名:鈴木 順子(すずき じゅんこ 1958年11月30日 - 2005年7月22日)

中央区京橋生まれ。日本橋で開業する呉服屋の娘として
幼時から歌舞伎、寄席、大相撲、江戸文化にひたって育つ。
また、5歳上の兄の影響で、ロック・映画などのサブカルチャーに早くから関心を寄せる。

日本大学鶴ヶ丘高等学校を卒業、日本大学芸術学部デザイン学科に入学するも中退。

家業を手伝いながら、手描きの友禅の勉強をする。やがて、独学で勉強できる「時代考証」に興味を抱き、朝日カルチャーセンターでの稲垣史生の「時代考証教室」では、その熱心さに正式な「弟子」として認定されるが、手っ取り早く生活できるようになる漫画家へと転身。

22歳の時、月刊漫画『ガロ』1980年11月号で、吉原を題材にした『通言・室之梅』(つうげん・むろのうめ)で漫画家としてデビュー。

浮世絵を下地にした独特な画風に特徴があり、江戸の風俗を生き生きと描くことを得意とした。代表作は、

漫画家としての代表作には、『百日紅』、『百物語』、『合葬』、『風流江戸雀』がある。

日本漫画家協会賞優秀賞、文藝春秋漫画賞受賞。

私生活では、荒俣宏と結婚したが、互いに多忙のため同居せず、荒俣の女性問題が原因で、半年でスピード離婚。

1992年、血液の免疫系の難病と診断され、そのため、
潔く漫画家を引退した。

1992年から2000年まで『コメディーお江戸でござる』(NHK総合テレビ)では江戸の歴史、風習についての解説コーナーを担当、好評を博す。

それからは、毎日新聞の書評委員で、死、病気、老い、いのち等に関する本を多く取り上げた。

2003年には、咽頭癌が発見される。2年後、1人で南太平洋クルーズに旅立つ。

最晩年は、掌編小説集『ごくらくちんみ』『4時のおやつ』を書き遺す。

2005年下咽頭癌のため千葉県柏市内の病院で死去。享年46歳。

杉浦が師事した稲垣史生は1912年生まれ。NHK大河ドラマの「竜馬がゆく」「樅もみの木は残った」など多くの時代劇の時代考証を担当。その厳しい時代劇評はテレビ・映画関係者を恐れさせていたそう。

また、兄の鈴木雅也氏は、杉浦の死生観を、次のように語っている。
「人間は病の容れ物。何かしら病があるのが当たり前で、それと引き換えに生きている――。生老病死を春夏秋冬のように受け入れていた江戸人の死生観に、自分を重ねるような文章が目立ちました」と。

#お江戸でござる
#杉浦日向子
#江戸風俗研究家 
#今日は何の日
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#11月30日生まれ
#ウーマンズストーリー
11月29日 昭和を代表する女優、田中絹 11月29日
昭和を代表する女優、田中絹代が生まれた日。ベルリン国際映画祭女優賞受賞、勲三等瑞宝章受賞他多数受賞。
『サンダカン八番娼館望郷』『楢山節考』など。

(1909年11月29日-1977年3月21日)

山口県下関市関後地村出身(現在の下関市丸山町)出身。父・久米吉と母・ヤスの四男四女の末娘として生まれる。元々は裕福な家庭だったが、久米吉が病死したため、次第に困窮。

幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、小学校で女性教師と諍いを起こして自主退学する。

翌1920年、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり、楽天地の舞台に立つ。
 
が、楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激し、映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。

1924年7月、兄が松竹大阪支社で給仕係として働いていた関係で面接を行い、8月に松竹下加茂撮影所へ入社、母と2人で京都に移住した。

14歳で野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同作では「犬の腰元」役を演じたが、主演の柳さく子と姿恰好が似ていたため、同時に彼女の後姿の代役もこなした。続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された。

「田中は身長が150cmしかなく、絶世の美女でもありません。しかし、必死に役を学び、誰にもまねできない和服の裾さばきと手さばきを身につけました。また、男性のように振る舞うのではなく、男性を尊重しながら女性の良さを表現することを実践した、昭和を代表する女優でした」と評されている。

映画評論家の西村雄一郎は、「シナリオに書いてある役柄を、その根本まで理解しひたむきに演じた。さらに熟考して新たな意見を出すため、巨匠たちにとって想像以上の効果を出してくれる得難い女優だったのです」と後に語っている。

死ぬ間際まで「目が見えなくなっても、寝たきりでも演じられる役があるだろうか。」と言っていたそう。

「私は映画と結婚しました」と度々語っていた絹代は、晩年は下関を大変懐かしみ、「私が死んだら骨は下関のお墓に入れて欲しい」という言葉を残している。

1977年、脳腫瘍の悪化により死去。享年67歳。

現在、下関市の中央霊園には絹代の墓があり、毎年、命日の3月21日には『花嵐忌(からんき)』と名付けられた市民墓参が行われています。

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11月28日 脚本家であり小説家、エッセ 11月28日
脚本家であり小説家、エッセイストだった向田邦子が生まれた日。
(1929年11月28日-1981年8月22日)

1929年、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)に生まれる。父親は叩き上げのサラリーマン、第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)に務め、後に役員になった。東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国語科卒業。

新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。その後 雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。そのころ市川三郎の元で脚本を学び、シナリオライターを目指した。雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する。

ホームドラマ作品の脚本家として現在も知名度は高く、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』といった人気作品を数多く送り出した。1970年代には倉本聰・山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた。

女性の社会進出がまだこれからという時代に、編集者から活動を始め、やがて多数のラジオ番組を構成、作家となり約1,000本のテレビドラマの脚本を手がけ、ヒットドラマの旗手となった。さらにエッセイを書き、数作の短編小説で直木賞を受賞。

1981年8月22日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。享年51歳。

残された多くの言葉や物語は、時を経ても色褪せることなく人々の心に響き続けています。そして、おしゃれを楽しみ、美味しいものに目がなく、旅が好きだったそう。猫を愛し、蒐集した美術や骨董を日常で使う美意識の人。常に仕事に追われ、それでも夜中まで遊んで、朝まで仕事して、そして誰にも言わない秘めた恋もしていた、多面性をもつ人。

今だに世代を超えて共感され、憧れの対象であり続けています。

大好きなオードリー・ヘップバーン、グレース・ケリーと同い年というのも何か不思議な縁を感じます。

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#今日は何の日
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#11月28日生まれ
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11月27日 武術家であり、俳優であった 11月27日
武術家であり、俳優であったブルース・リーが生まれた日。截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)の創設者。代表作は、『ドラゴン危機一発』、『ドラゴン怒りの鉄拳』、『ドラゴンへの道』、『燃えよドラゴン』、『死亡遊戯』

(1940年11月27日 - 1973年7月20日)

サンフランシスコ出身。
父親の中国系で広東演劇の役者の李海泉と、白人と中国人のハーフの母・何愛瑜との間に生まれた。家族でがアメリカ巡業中、中華街でうまれた。

生後3ヶ月でサンフランシスコで製作された映画『金門女』に出演。

その後、香港に帰国した。
8歳頃から子役として数多くの映画に出演。また中華民国の上海精武体育会香港分会にて北派少林拳の邵漢生に指導を受け、節拳(弾腿門)などを学んだ。

13歳の時、ブルースは、詠春拳の使い手である葉問のもとで修業し喧嘩に詠春拳を使うため3年で破門となり、2年間兄弟子に教わる。その後ブルース・リーは高校ボクシング大会に出場しチャンピオンのイギリス人を1RでKOする。

しかし、何不自由なく育ち、日々喧嘩に明け暮れ、「俳優の不良息子」として悪名を知られたブルースの将来を心配した父は、香港から渡米を命じる。18歳のブルースは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。

新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校のシアトル・セントラル・カレッジに通い高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。

高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。

リンダとの間に一男一女。息子は故ブランドン・リー、娘はシャノン・リー。 享年33歳。 俳優として活躍したのは4年ほどと短かった。

あまり知られていないが、ワシントン大学で哲学を専攻。そのせいか西洋および東洋思想に精通し、ナポレオン・ヒルからインドの哲学者ジッドゥ・クリシュナムルティまで研究していた。彼はよく詩を書き。沢山の名言を残している。

“すべての行動に制限を設けてしまえば、それはいつか仕事や人生にも波及してしまうだろう。限界などない。踊り場があるだけだ。そこに居座ってはいけない。それを越えて行くのだ。”

#ブルースリー
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#今日は何の日
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#11月27日生まれ
心の目で娼婦を描いたフランスの画家

11月24日
フランス、ベルエポック時代の画家、トゥールーズ=ロートレックが生まれた日。

本名はアンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ。

ポスターを芸術の域まで高めた画家であり、「小さき男」「偉大なる芸術家」と形容される。

(1864年11月24日 - 1901年9月9日)

南仏のアルビ出身。父のアルフォンスは、トゥールーズ=ロートレック家の伯爵であり。祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる名家であっ
母のアデールは、控えめで優しく、慎ましやかな女性だった。のちにロートレックは「聖人のような女性だった」と言っている。

ロートレックは、幼少期には「小さな宝石」と呼ばれ、可愛がられて育った。しかし弟が夭折すると両親が不仲となり、8歳のときには母親と共にパリに住むようになった。

そこで絵を描き始めた。すぐに母親は彼の才能を見出し、父親の友人の画家からレッスンを受けるようになった。そこで生涯の親友となるモーリス・ジョワイヤンと出会う。

が、13歳の時に左の大腿骨を骨折、14歳の時には右の大腿骨を骨折。それ以来脚の発育が停止。成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。このことは、ロートレックに期待をかけていた父をがっかりさせた。

これは、両親がいとこ同士で結婚、近親婚に起因する遺伝子疾患と考えられている。

ロートレックが住んだモンマルトルという場所は、いろんな人種やありとあらゆる職業の人々がおり、彼の身体的欠陥等は問題にはならず、住み易い場所だった。
ムーラン・ルージュ等の店やそこで芸をする役者やダンサー等のポスターを、当時発達途上にあった多色石板刷りで制作し、一躍売れっ子になった。

ロートレックはまた、娼館を度々訪れ、娼婦達のスケッチを重ねた。彼女達と寝食を共にし、話を聴き、酒を与え、字の書けない女には代筆をしてやった。彼女達は、彼を「画家のアンリさん」と呼んで心を開いた。
金で買われる女達の悩みや孤独、歓びや悲しみの共感を彼の絵で表現した。

当時の彼の言葉である、
「醜さの中に必ず美しいものが隠されている。誰も見つけないところにその美しさを見つけるのは実に感動的だ」。

ロートレックは27歳くらいからリトグラフを製作し始めた。作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた。

彼のポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインも用いた。

ロートレックの仕事はいつもアルコールと共にあった。
「良い芸術を鑑賞するには、美味い酒が欠かせない」。
仕事と共にアルコールも増えた。
酒場から帰って朝まで絵を描くのが彼の創作スタイルだった。
だが、彼の虚弱な身体と精神を、多量のアルコールは蝕んでいった。

1901年7月、彼は死を覚悟してパリのアトリエを整理、母の住むマルロメ城に移る。しかし、僅か20日後永眠。享年36歳。

残された言葉は、
「人間は醜い、しかし、人生は美しい」。

死の翌年、父親アルフォンス伯爵は、ロートレックの全作品をの画商となっていたモーリスに委託した。

モーリスはそれを整理・管理し、散逸する事を防止しながら、1922年、ロートレック美術館を故郷アルビで創設。

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#今日は何の日
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#11月24日生まれ
織田、豊臣、徳川そして天皇家を融合させたお姫様

11月23日
第108代天皇・後水尾天皇の皇后(中宮)であった徳川 和子(とくがわ まさこ)が生まれた日。

徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。女院号は東福門院(とうふくもんいん)。109代天皇・明正天皇の生母。

(1607年11月23日- 1678年8月2日)

徳川秀忠の五女として江戸城で誕生。母は豊臣秀吉の養女であり織田信長の姪、お江与。幼少時の名は、松姫(まつひめ)。

家康は徳川家へ権力を集中させるため、まだ6歳だった内孫の和子を後水尾天皇に入内させ、天皇との外戚関係をつくろうと画策。家康が死去した後は、2代将軍・秀忠が方針を継いだ。

和子は、13歳で入内。
江戸を出発した徳川和子の行列は,20日間を費やして東海道を上り,京都入りした。

和子に対する女官たちの眼は冷ややかで,公武の習慣の違いも和子を戸惑わせた。が、和子の心を慰めたのは天皇の生母・中和門院であった。彼女は陰になり日向になって和子を庇い,優しい姑の思いやりを示したので,生まれながらの姫君で素直な和子は宮廷の生活にも馴染み,和やかな日々を過ごすようになった。

1623年には16歳で懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男・家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石が寄進される。同年11月19日には皇女・女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。

もとは政略結婚であったが,和子の誠意と中和門院の賢明な指導が,皇后として立派に幕府と朝廷の間を取り持つクッション役となった。

入内後,和子は一度も江戸に帰ることなく,宮廷人としての生涯を貫いたそう。

1678年6月15日崩御。享年72歳。姑であった中和門院と同じ墓、京都泉涌寺月輪陵に眠っている。

和子は、宮廷のファッションリーダーでもあった。
身の回りを飾る着道楽で有名で雁金屋(尾形光琳・乾山兄弟の実家)という京都の高級呉服商を贔屓にしていた。

雁金屋は2代目・道柏が近江の浅井長政の家来筋であり、長政の3人娘である「淀君、茶々」、「京極高次夫人、お初」、「お江、和子の実母」に引き立てられて、高級呉服商になっていた雁金屋であったが、最大の顧客であった和子が亡くなると、雁金屋は大名貸しに手を出した。
その結果、回収不能が重なって没落。この没落が尾形光琳の困窮に繋がり、光琳が生活のために絵を描き始め、今日国宝・重要文化財として扱われるものが生み出されるきっかけになった。

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